随想

随想

−わが人生に悔いなし−

前編

平岡邦三

長崎大学同窓会誌

平成2年1月15日号

 健康でなければ笑いはない

 編集委員からのお誘いを受けて、さて何を書こうかと考えた。まず今、私がやっている仕事から「日本語を世界へ広めよう」のテーマも考えたが、それよりも先ず、私の現在の高齢・健康・幸福から、皆様が、特に70歳以上の同窓の方たちが、私と同じようにいつまでも健康、幸福であってほしいとの念願から、敢えて私の健康法をお話させていただくことにした。同時に私のまったく独異の悔いない一生を聞いていただきたいと思う。

「わが人生に悔いなし」とはまた大上段に振りかぶったものだといやみなきにしもあらずで恐縮であるが、本文を読んでいただければおわかりいただけるように、私は今、完全に健康であり、幸福であり、まったく悔いのない生活を送っている。基調は言うまでもなく家族全員が健康であるということである。病人のある家庭には「笑い」はなく、笑いのないところに幸福や生きがいがあるわけがない。「笑う門には福来る」まず毎日の生活に笑いを持ってほしいと言うことである。「わが人生に悔いなし」今日まで私の人生は笑いと幸せの連続であった。今死んでもまったく悔いのない人生ではあった。が、できる物ならもうしばらく今この幸福と笑いを続けて死にたいと思っている。

 笑いのないところに幸福はない

さて私の笑いの人生はどう始まったか?先ず中学校から長崎高商への一発入学である。英語が好きだったこと、文章が自由に書けたこと。これが一流高商への入学、さらに九州帝大へのフリーパス、次のアメリカ・ワシントンでの一流大学を短期間で卒業できたことにつながっていく。アメリカの大学までいったのは外交官試験受験のための英語を完全にモノにしたかったためである。3年間の必死の勉強のため、英語はモノになったが、肝心の外交官試験はアウト。一回でパスしないようなものはあきらめてしまえと、あっさり打ち切り、第2の人生、月給取り生活が始まるのである。そのときまったく偶然と言おうかインドネシア(旧蘭領東印度)の大華僑商社が日本に支店を開設したいと巨大な計画にぶっつかり、受験、直ちに入社決定。世間一般が7、80円の月給ペースであるときに200円の高給で入社、直ちに輸入部長として働くことになった。これで後述するように大東亜戦争中の私のしたい放題変転極まりない生活が始まるのである。

 戦争中の窮迫した物資調達のため東南アジアからのあらゆる物資の買い付け、特にゴム、錫の獲得、輸送、シベリア鉄道を通して、あるいはドイツ潜水艦に積み込んでのドイツへ輸送、泰緬鉄道の建設への献身的協力、と全く八面六臂の大活躍であった。そして終戦、これらに絡んで戦犯容疑者としてのバンコックでの逮捕、投獄、シンガポール、チャンギ監獄への移送、監禁、と苦難の日が2年間続く。チャンギでの戦犯裁判は証人が漸次出てこなくなったため継続不可能となりやむを得ず立ち消え、暫く釈放と決定。昭和22年12月5日やっと日本に帰ることができた。この間は全く私の暗黒時代。ただし帰日、活躍をはじめるとまたすぐ栄光の日々が始まるのである。

 尾道商業とボート漕ぎ  

私の産地は広島県の尾道市である。家が商家であった関係でどうしても中学枚に入れてもらえず、商業学校にしか入れなかった。隣りの都市、福山市には有名な誠之館(福山中学校)があったが、どうしても入れてもらえず、子供心にも全く残念であった。即ち商業学枚では一高、東大のエリートコースには乗れず、結局尾道商業卒でストップかな、と情けなかったからである。

ただし私は英語がすきでよく出来たので商業学校の学業には全く苦しむことがなかった。ボート部員として毎日徹底的に商業学校生生活をエンジョイ出来た。特にその当時殆どどこにもなかったスライディングシート、八人乗りの競漕用ボートを尾道商業が買い入れたので、私は友人クルーと一緒に毎日これに乗り回り、且つ遠くアチコチに遠漕して瀬戸内海の美しい風景を存分にたのしむことができた。或る時は鞆の仙酔島まで遠漕し、仮泊した一晩をクルーと一緒に飲みあかしたこともあった。当時のこれら学友達はもう皆亡くなってしまったであろう。

 特に尾道は、こ承知の通り室町時代からの商港、遊楽地であったために、私は商業時代から芸者屋に出入りして居たようである。たみ子と云った美しい舞妓と遊びまわった事を今でも覚えている。十六、七歳である。この妓はやはり大物になり最近まで染千代(?)姐さんとして広島花柳界で君臨していたと聞いている。

 

 長崎高商とハーモニカバンド

 それから長崎高商である。私は長崎高商と名古屋高商に難なく入学ができた。考える必要もなく私は直ちに長崎を選んだ。当時の長崎高商は東京一橋高商に次いで全日本での優秀佼であった。入学して驚いたのであるが、ほんとうに日本全国の中学校からの選り抜きのエリートが集まって居た。私の選択は間ちがっていなかった。長崎と云う全くいい環境で、したい放題をさせてもらった。語学部長として英語劇をいろいろやったし、陸上競技でも一万メートルを走って三高商(長崎・山□・大分)のリーグ戦にも毎回出場、各校を歩きまわって全く楽しい選手生活を送ることができた。

 又当時はハーモニカバンドが全盛時代であったが、私もすぐハーモニカバンドを結成して私が指揮者となった。多数の世界の名曲をハーモニカ用には編曲して長崎県各地を演奏旅行して回った。このバンドの編成には一年下(ニ十回)の大社、樋□、宮本その他各氏の協力に負う所が多かったが、これのおかげで皆がアイーダ、カルメン、ウイリアム・テル等の西欧の多くの名曲の細部を知ることができこれが又皆の一生涯の音楽知識と鑑賞に役立ったことである。このバンドの編成は又豪華であった。ファースト、セカンド以下バリトン、バス、各種打楽器まで揃えて総勢二十人、全くすばらしい一流のハーモニカバンドであった。前記の諸兄は皆現存である。(宮本氏は残念乍ら最近亡くなられたようだが)。現在も親しく交際して頂いており、皆当時を大変懐かしがっておられる。このバンド以外にコーラス隊も作った。即ち、−年上(十七回)の村上(テナー)河柏(バリトン)大村(ベース)三君、それに私のセカンドテナーの四人で男声四重唱を結成した。今のダークダックスであるが、これが六十五年前の話である。ラジオ放送をやったり、九州各地を演奏旅行をしたり、更に私の故郷、尾道でも男声四重唱だけの演奏会をやった。今では全く考えられないようなことをやってのけたものである。前記の三君は皆もう亡くなられた。皆いい声をして居られた。この四重唱は大変うまかったと自負している。

 その他、活水女学校専門部の美人、美声の女性二人と混声四重唱もやった。男性のバリトンは同期の細見君である。現在もまだ福岡県門司で健在、同期会にも出ておられる。女性二人はもうなくなられた。

 こうした高商での私の音楽生活は私に一年の落第生活をもたらした。演奏旅行と、生憎の私の父親の死亡と重なりあって学校の試験を受けられなかったためである。それにこ存じの浅野先生ににらまれて進級拒否、一年留年と相成った。即ち私は長崎高商四年在学である。然し私はこれで二倍の学友とお友達になる事ができたし、又一年余分に楽しい長崎生活を楽しむ事ができたのである。十八回には故、元、三井物産社長若杉末雪君以下優秀な方がおられたし、十九回にも故、元ブリジストン副社長瓜生一夫君以下いろいろおられるし、皆親しくしていただいている。特に瓜生君には私の長男がブリジストンに入社する際に大変お世話になった。私の息子は今ブリジストン横浜工場で部長をさせていただいている。

 私のカラオケの愛唱第一曲は「長崎は今日も雨だった」である。いつでもこれを歌うのであるが「夜の丸山たずねても」全く懐かしい思い出ばかりである。ほんとうに私は長崎で徹底的に青春を味わせて頂いてほんとうに感謝して居る。

 九州帝大とシンフォニー 

 次は九州帝大である。前述したように商業学校の卒業生が帝大に入れるなんて夢にも考えて居なかった。所が全く幸いな事に大正十四年から九州帝大に法文学が創設され、ここだけは普通高校卒業生以外に高等専門学校卒業生を受け入れることになった。勿論私は飛び付いた。大正十五年受験、一発で合格、入学、これで念願の帝大入学が果たせたのである。全く天にも昇る夢心地であった。そしてこれこそ「わが人生に悔いなし」の決定打であった(これは旧学制をご存知ない方には一寸理解できないことかもしれない)。

 この九州帝大の受験は前述の活水女学校の美人ソプラノI嬢といっしょであった。私は一発パスであったが、彼女は残念ながらアウト。もし彼女もパスして、福岡で一緒に学生生活をしていたら私の人生航路は又全く変って居たであろう。

 九大に入学して見て、また驚いたことことだが、これも又全く全国から優秀な学生ばかりの集団であったことである。勿論三高、五高といった優秀普通高校からの進学者が大部分であり、エリート中のエリートの集団であった。

 これから九大の学生生活がはじまるのである。私は入学後直ちにグリークラブを結成した。幸いにいいベースに恵まれ、すばらしい男声コーラスが出来た。九大グリークラブとして後述の九大シンフォニーと共に九州各地を演奏旅行して回った。この九大シンフォニーオーケストラにも私はすぐ入った。このシンフォニーオーケストラはこ承知のスタイナッハ若返り法で有名だった九大の榊博士が総帥であり、七十人編成の全国でも有数の素晴らしいオーケストラであった(六十五年以前の話であるよ)。私は直ちに参加、セロを弾いたり、ホルンやトランペットを吹いたり、不足パー卜の穴うめ役をやり、重宝がられた。当時のコントラバス奏者が現在大阪梅田の白壁クリニックの故・院長白壁武弥氏であった。生前公私井に大変厄介になったものである。

 又九大には素晴らしいマンドリンオーケストラがあった。マンドリンオーケストラ全盛時代で、明治大学のそれに負けない大ハンドであった。私はこれにも参加し、マンドチェロを弾いていた。その当時演奏したフランスの名曲「麦の歌」を今でも覚えて居る。素晴らしい男声コーラスの入った壮大なマンドリンオーケストラであった。シンフォニー、マンドリンオーケストラとコーラス、これらを通して私は西洋の有名な楽曲を全部知ることが出来た。これは私の一生の音楽生活を通じて大変に役立ったのである。こうして音楽を通じて大変いいお友達が沢山でき、全くたのしい九大生活を送ることが出来、大変喜んでいるわけである。

 ここに特筆大書すべき友人が一人いる。五高卒剣道郁首将であった和歌山の有名弁護士の二男、山本敏男君である。この君に私は毎白昼から引っ張り出され、飲みに連れ歩かれ、すっかり呑ん兵衛になったことである。豪快ないい男性であった。今なお私が大変お酒が好きなのは、この君の指導によるものである。ここでも又ほんとうにし度い放題をしたものである。この君は同興紡績に入って居たが、今どうして居る事やら。

 アメリカ留学

 ここで話は一寸ひと休みである。即ち私の帝大卒業は昭和四年であるが、これはご承知の通り世界最低、どん底の大不況時である。「大学は出たけれど」就職ロは絶無、どんなに走り回っても一切何も無かった。

「さあて」と考えた。結論として出たものが、好・不況に一切関係のない官吏、特にもっとも安全、高級と考えられる「外交官」である「さあこの試験を受けて見るか」それにはもう少し英語力が不足のようだ。まだ若い。アメリカヘ行け、と考えた。「これだ、善は急げ」と早速計画を練り始めた。アメリカでの行き先は?大学は?資金は?あらゆる友人と相談した。資金は何とかカンパで出来そうだ。アメリカ、シアトルのワシントン大学には長崎高商同期の荒川雄大君が行っている。手続きは一切してくれる。当座の宿舎も面倒見てくれる。これで一切は決まった。日本を飛び出す心をした。勿論当時はまだ飛行機なんて全然無い船会社を調べた。あった、あった。しべりあ丸のシアトル行きがあった。これに横浜から飛び乗った。昭和五年五月である。福岡では皆様からカンパを頂き丁寧に見送って頂き博多駅で深々と頭を下げたことである。太平洋は大シケである。船はこわれる程大揺れ、何もノドを通らない日々が何日も続いた。ゲロゲロ、ヘドヘド、惨憺たる航海であったが、それでもやっと二週間後にはシアトルに到着、荒川君の出迎えを受けてアメリカ大陸に上陸することができた。

 これがアメリカだ。目をクリクリさせ乍らシアトルのビル街に見とれ、大地を踏み鳴らした。その時の私の所持金は船賃を払って米弗に換算したら僅か十三弗五〇仙―――これが、これから何年続くか分からない私のアメリカの生活資金の全部であった。七月は大学の夏休みである。私はすぐ

桂庵(職業斡旋業者)に飛び込んだ。仕事はすぐあった。アラスカ行きである。船でのアメリカ大陸西岸、カナダ沿岸の北航は素ばらしい景色であった。

 濃い緑の密林に蔽われた両岸、手の届くような狭い海溝を北へ、北へと静かに遡行する。何日かたって船は止まった。そこが鮭の缶詰工場である。そこで楽しい三ケ月間を過ごした。休日にはボートで沖に出る。海水を漕ぐのではない。河口は全面鮭でびっしりである.鮭を漕ぐのである。これにはおどろいた。こんな壮観を初めて見た。又アメリカで初めて見る大規模の缶詰工場―――まったく何もかも驚きであった。

 三ケ月働く。これで大学への入学金、授業料も出来た更に中古車一台位買えるお金も余った。九月にはシアトルの州立ワシントン大学に無事入学、これから私のアメリカでの大学生活が始まるわけであるが、これについては後日ゆっくり書きたいと思って居る。先般『瓊林』に同じ時代にカリフォルニア大学で修学された長崎高商十八回の木村明さんの留学記が載っていた。面白く読ませて頂いたが、私も私独自のアメリカ学生生活を書いて見度いと思っている(少し旧聞には属するが)クッド・オールド・ディズ「わがよき楽しき日々」として書くつもりである。御期待を乞う。

私がアメリカの大学に入ったのは昭和五年九月、その翌年には満州事変勃発、アメリカでの対日感情は日々極度に悪化し、大学キャンパス内でアメリカ人学生からペッペッと睡を吐きかけられたことも度々である。ただしこうした中での学生生活は、いいホームステー先に恵まれ、経済的にも時間的にも十分の余裕があったので、あらゆるオペラ、音楽会を見に行くことが出来、全く快適、多くの楽しい思い出を持つことが出来たのである。特にメリーウィドー・ステューデントプリンス(日本では「アルトハイデルベルヒ」)のオペラは忘れることが出来ない。後者の素ばらしい男声コーラスは今でも耳の底に残って居る。

 前述した通り私のアメリカ行きは外交官試験受験のためだけの英語勉強であったから、ほんとうに一生懸命に英語の勉強をした。幸いに大学も順調にパス、三年間で大学を卒業することが出来た。その間、日本から勉強に来られた方もいろいろ居られた。中には森永キャラメルの御曹司、森永さんも居られたが、皆途中で挫折して居られるようだ。

 外交官試験落第

 さあ、アメリカでの英語勉強はひとまず終わった。あとは待望の外交官試験である。東京に居をかまえて受験勉強を始めたが、偶然、又幸いに同学のいい友人五人を得た。東京帝大卒のA君、慶応卒のB君、私大卒のCD君、それに長崎高商二十五回卒の川原謙一君、それに私を加えて六人でスクラムを組んで勉強を始めた。結論から言うとAB君は一発でパス、外務省入り。A君は大使にまでなっている。C君・川原君は一年後にパス、

C君は満州国外務省に、川原君は外務省入りだが、外交官の試験はなく、ずっと本省で長年研究に没頭、特に移民法の権威として法学博士まで取られ、現在も東京で大学の教授をして居られる。CD君はその後どうしたか、連絡がない。私の場合、完全にパスしたと確信、安心して居ったが、年齢のせいか、残念乍らアウト。一発でパスしない試験ならやめてしまえ、とアッサリ外交官指向を放棄、四君は外務省入り、栄光の外交官生活を送られたわけであるが、私の場合外交官になった方がよかったか、これから

述べるように、したい放題の生活をした方がよかったか、読者の判断にお任せすることにしよう。

 華僑商社入社と仕放題

 さて、これから何をするか、当初は浅野物産へでも入ろうかと本気で考えた事もあったが、全く偶然と云おうか、ラッキーといおうか、外国籍の大商社が、これからの日本の重要性を考えて、大阪に日本支店を開設したい、英語のうまい人が欲しいと云って居る、と前述の長崎高商、四重唱、当時第ー銀行に居られた大村さんが話を持って来られた。早速面接、ー発でOK。これは昭和十年であり、世間ー般が七、八十円の月給ペースである時に初任給二百円と言う高給で部長から始まり、下積み生活は全く無かった。これは破格のスタートであり、これから全く多端、独異の私の人生が始まるのである。この会社は入社して調べれば調べる程大変な巨大会社であることが分かった。即ち当時のインドネシアはオランタ領であり、会社はオランダ法により設立されているしたがって会社名はNV・ハンデルマスカッペー・キャングワン(建源)である。が完全にインドネシア産業を全面的に牛耳り、海運・倉庫・銀行・産業各分野に亘り、世界中に支店を持つ巨大華僑商社で、当時の三井物産より大きい総合商社であることが分った。これを基盤に戦時中の私の大活躍が始まるのである。

 戦時中の大活躍

 満州事変は直ちに日支事変となり、更に大東亜戦争と拡大、第二次世界大戦へと進展する。南方各地に強圏な基盤を持つ建源は、南方物資の獲得、これらの独・伊への輪送と大変な役割を演ずることになるのである。この展開に伴って私は朝鮮・支那大陸・東南アー帯をかけ回ることになった。その間私はいつの間にか上海語、マレイ語、タイ語を自由にしゃべれるようになったのである。当時私が書いた日・英・タイ・マレー対照会話辞典は、戦時中南方を旅行される日本人・軍人に大変重宝がられたものである。

 戦時中の物資の欠乏と、これに対する補給は、日本のみならす支那・独乙にも不可欠であった。戦争必需品、特にゴム、錫の供給枯渇で四苦八苦、私は前述の建源の買付網を総動員してインドネシア、マレーから大量のゴム、錫を買い付け、これらを日本に供給すると同時に、一部を大連に集結、シベリア鉄道を通して、又は独乙からやって来た潜水艦に積み込んで独乙へ供給したものである。当時大倉商事の方達とは大連で大変仲よくして頂き、毎晩一緒に飲み歩いたものである。あの方達は今どうして居られるだろうか。

 戦時中に私は後述するアトロシティに関連する泰緬鉄道の建設に献身的な貢献をした。このタイからビルマに通じるこの鉄道の建設はほんとうに大変な難事業であった。全くの山間僻地に食糧も資材もなく、人間の手で岩を崩すような状況であった。それに要する大量の橋梁・枕木の材木の切り出しは大変だった。私はこれを一人でやってのけたわけであるが、その間個人感状を三回も戴き、世が世であれば完全に金鵄勲章ものである。これも後述するタイ国プリンセス、アティタヤ嬢の献身的努力に負うものである。全地域のタイ住民が心から協力してくれたからこそ出来たのである。

 この銭道は今でも動いて居るのであろうか。動いて居るなら是非ー便乗って見たいものである。

 更にタイの最南端、タイ湾とインド洋との最短距離、最も幅の狭い地峡、クラ地峡の横断鉄道建設も又大変な工事であった。ビルマ戦線への物資・兵員の輸送の為に、泰緬鉄道と併行して建設したのであるが、この建設にも私は献身的な努力をした。初めて列車が動くのを見て皆が泣いたものである。吾乍らよくやれたものだと述懐して居る。これらが皆後述するチャンギ監獄行きの材料となったのである。

 日本軍の南方戦線の拡大で、タイ国を基地としてシンガポール作戦が始まった。大戦車部隊がマレー街道を南へ南へと移動する。私はこれに従ってシンガポールヘと入るのであるが、行けども行けども戦車の隊列で、全くおどろいたものである。よくこれだけの戦車があるナ、と同時にどうしてこれだけの戦車をタイに持ち込んだのかとホントに不思議に思った。

 日本軍がシンガポールに入る前に私はシンガポールに入った。前にいった私の会社、キャングワン・シンガポール支店と連絡をとり、社員の生命、財産を確保してやるのと、華僑工作作戦の為である。キャングワンの人達は私を見ると抱きついて喜んでくれた。彼等を安心させ、華僑の日本軍への協力を促進したのである。こうして私は日本軍より先にシンガポールに侵入したのである。

シンガポールの陥落は、ご承知の通り日本全体の大変な喜びであった。

これから又すぐインドネシア作戦が始まるのである。

 敗 戦

 太平洋戦争はアメリカ軍の原爆二発で終結した。敗戦の詔勅はバンコックで涙乍らで聞いた。欧州戦線におけるイタリアの脱落、ドイツの敗退で日本は独りで世界を相手に戦わざるをえなくなった。こんなことか出来るワケがないと諦めては居たものの、こんな惨めな負け戦になるとは考えても居なかった。愈々敗けだ。バンコック在住の日本人は全部収容キャンプに集結だ。車も家も全財産を完全に放棄して、ほんの身の回りの、手に持てるだけを提げての大移動が始まった。バンコックでは爆撃も何もなく、全く平静で敗戦の実感がないだけに、全く残念で仕方がなかった。日本人

の全部がバンプァトンのキャンプに集結して耐乏生潅が始まったのである。いつまで待てば日本へ帰れることやら。もう日本には船は全部沈んでしまって、何もないであろう。敵さんも疲労困憊、吾々を助ける丈けの余裕なんてないであろう。日本に帰るのに何年もかかったんでは、みんな金もなくなり食べることさえ出来なくなるではないか。さあどうするんだ?

 アトロシティ(暴虐行為)

案ずることはない。私の場合、集結が始まった途端に進駐連合軍から「平岡」の指名、逮捕命令が来た。初めは平田とか、邦夫だとか、うその指名が来るので「そんな者は居ない」とハネ返して居たものの遂に「平岡邦三」でハッキリ指名が来た。万事休す。もう逃げも隠れも出来ない。キャンプでは経済部長として皆様のお世話をし、皆様と親しくして頂いていたので、私は一応の事情をお話をし、お別れの言葉を述べると同時に、連合軍に逮捕され、引き立てられてキャンプを去った。

途端にバンコックの監獄に打ち込まれ、監獄では早速厳重な取り調べが始まった。私は一介の商社マンであり、軍と何の関係も無いと執拗に戦犯となる理由は全く無い、と強弁し続けたが一切受け付けない。それも前述したように私が五ヶ国語が由由に話せるので、凡ゆる情報を持って居るに違いない、との認識と、後述する泰緬鉄道建設に関連するアトロシティ(暴虐行為)に関与して居るとの確信のもとに強引な検問が始まったのである。事実、前述の泰緬鉄道の建設に当たっては当然大量の英米軍捕虜が徴発、重労働させられ、多数の死傷者を出して居る。更に東南アジアからも無数の苦力が参加し、無数の死者を出して居る。極端な事例は、これら苦力のキャンプに一度コレラが侵入すると全く防ぎようがない。彼等の医療知識の皆無のため、治療、注射は全然受けようとしないし、逆にこれらのコレラ患者をキャンプの中に隠すのである。当然キャンプ中にコレラが蔓延し全員がコレラになるのである。こうなると全く処置なし、やむを得ずキャンプに放火し、患者共々キャンプを焼き払って仕舞わざるを得ないのである。これらが彼等のいうアトロシティとなり戦犯に該当することになるのである。これは軍のやったことであって、私には全く関係のないことであるが、軍の協力者として巻きぞえを食うことになったのである。私はこうして戦犯容疑者として有無をいわさずシンガポールのチャンギ監獄に移送、投獄されたのである。私は鉄道部隊の中にほうり込まれて連合軍の厳重監視下にはいり、ここで二年に亘る監獄生活が始まるのである。

 チャンギ監獄の戦犯生活

 チヤンギの監獄生活、これは全くヒドいものであった。まず食糧がない。米が全くないのである。オモユのような米汁を一日に一回と云うようなことも度々であった。それに猛烈な重労働である。更に最悪は英軍人の常識を越えた態度である。吾々に対して無茶苦茶な要求をして来る。理を通してどんなに説明してもムダである。私はこれが民主国家の代表である英国人の態度かと何度抗議したか知れない。因みに私は英語が出来たので監獄内でも通訳をやらされて居たので、重労働はまぬかれてはいたが、頑迷な英軍と日本兵の板ばさみで大変苦しい思いのし通しであった。一例としてクリスマスの話がある。十二月二十五日はクリスマスである。彼らも当然ゆっくり休んでお祝いでもするだろうと思って、クリスマス当日の重労働はなし、とするように申し入れた。所がどうであろう、当日は朝早く希少を命じて全員を営庭に整列させて、全員に前に腰をまげて最敬礼の姿勢をとらせた上、担当兵長は大きな棒を振りあげ乍ら大声で怒鳴った。「今日はクリスマスである。これから全

員にクリスマスのプレゼントをする」と言いいさま、日本兵が後に突き出した尻を一人ずつ太い棒でコッピドク叩き始めたのである。私は厳重に抗議したが、やめない。ますますヒドク叩き回ったのである。全員が尻をひどく引っばたかれたのが、クリスマスプレゼントであったし、更にその日も重労働をやらされたのであつた。そうした異様、非常識な英軍人のやり方を見て、私は「一生涯英語でメシは食わない」と決心したのである。終戦後英語でメシが食えるいいチャンスはいくらでもあったが、断然拒否、現在までこれを押し通している。二年間の監獄生活の間に多くの日本人戦犯がチャンギ監獄で処刑された。私は通訳をして居た関係で、どこへでも行けたので、多くの日本軍人死刑囚の最期の悲痛な叫びを何度も聞いたが、どうしょうも無い。私もいつかあの様に、と度々思った事である。が、幸いな事に時間が経つにつれて原地人が証人として現れなくなった。ご承知の通り英・米の裁判は全部証人依存だから、証人が出なくなれば裁判が成り立たない。従って戦犯裁判がやれなくなってしまった。私も入獄当初は前述のアトロシティで三回程原地人の面通しに引っ張り出されたが、幸いにこの人達には指名されすに無事に監房にもどって来ることができた。証人不出廷で戦犯裁判は中絶となり、鉄道部隊全員の日本送還が決定した。チャンギ監獄入獄後二年、昭和二十二年十月である。全員喜びに沸き立った。全員出獄、ジユロンキャンプに移動、集結、逐次内還が始まったのである。

 これで私の首がチョン切られないで、日本に帰れることがハッキリしたのである。全く萬万歳である。

 私は特別の計らいで、皆より早くチャンギを出獄してジユロンに入ることができたのであるが、同士を放っておくには忍びないので、皆が出て来るまでジュロンに留まる決心をした。

 その間キャンプでは文芸部長として皆様の面倒を見た。南方各地から大量の兵隊達がジュロンに集まり、次々と日本へ帰って行ったが、キャンプでは部隊慰問の為に度々演芸会を催した。全く多種多様の芸人が居られて楽しい演芸会を見ることが出来、敗戦・流転を忘れて楽しい時間を持つことが出来た。浪曲、落語を初めとして「鶴八鶴次郎」「国定忠治」のお芝居、特に「南の国に雪が降る」など忘れ切れないものが沢山あった。待ち焦がれた同志の出獄で愈々帰国の決心をしたのである。

 内地生還

私は昭和二十二年十ー月輝山丸で帰還と決まり鉄道部隊と一諸に乗船した。船内では毎日発行の「輝山丸ニュース」を執筆・全員に配付した。皆様に喜んで読んで頂いた。このコピーは現在も私は保存している。

 十二月五日輝山丸は佐世保に到着した。何年ぶりかに吾々は日本の土を踏むことが出来た。全く劣悪な食事で栄養失調・骨皮身ないさん、四十キロの身体でヨロメキ乍ら大阪駅に帰着した。(続く)

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