自衛隊物語

末久充彦

1980318日、わたしは陸上自衛隊伊丹駐屯地の教育隊に入隊しました。

6時起床10時消灯の規則正しい生活。

特に起床時は5分で作業服に着替え、点呼。

遅れると腕立て全員100回なんてのもざらです。

前期教育では自衛官として共通項の必要なこと、

号令、隊列などの基本教練、

戦技としての銃剣道、

体験射撃が中心になっていたと思います。

映画「愛と青春の旅立ち」にあったような身体検査や

戦闘訓練もあったりでいかにも「軍隊」っていうかんじでした。

ただおもしろいのは、いわゆる「同期の桜」である同胞の顔ぶれです。

社会のあらゆる落ちこぼれのあつまりであったのです。

私のような「進学おちこぼれ」に、就職おちこぼれ、

元暴走族、人生に疲れた厭世者、ボクサーくずれ、

そうそうたるメンバーでした。

それらがすべて同じ訓練を行い、寝食をともにし、

同じ苦しみ、同じ痛み、同じ達成感。

仲良くならないわけはありません。

3ヶ月の前期教育が終わるころには、80人の心は一つになっていました。

前期教育が修了し、後期教育のため

40人ほどは他の駐屯地に

移動します。

わかれのトラックに乗り込む「同期」を

涙なしで送るものはだれもいませんでした。

1980618日、わたしは陸上自衛隊伊丹駐屯地の教育隊の

後期教育にはいりました。

前期教育が自衛官としての共通項の訓練であったのに対し

後期は部隊の専門分野の訓練です。

私は職種に特別志望がなかったので自然に普通科(歩兵)

ということになりました。

前期が基礎体力の育成が中心だったのに対し、

後期は心の教育?まで踏み込んでいました。

といっても軍国主義教育ではなくて、

自分にうち勝つ方法というような教育です。

とにかく吐くまでよく走りました。

一日平均10キロ。かつてのオリンピックマラソン選手の

円谷選手が自衛隊体育学校出身だというのもうなづけます。

後期教育中、わたしはふたつ、大事なことを学びました。

ひとつは組織。

もともと烏合の衆であった隊員たちを「自衛隊」に育てるため

それを指揮、監督するためには、上司は生半可な人間では

務まりません。統率力とはつまりそのまま「人間の大きさ、度量、人格」

をあらわしています。上命下達でうごく軍隊ですが、単に命令だけでは

人間ってうごけるもんではありません。

「この人のためなら死ねる」って思えなければ、ついていけない。

さいわい、わたしはそのような上司にめぐりあうことができました。

もう一つ学んだのは、法律。

憲法第

9条と自衛隊について、隊員(兵士)と曹官(下士官)にわかれて

隊員が自衛隊擁護派、曹官が自衛隊反対派となってディベートを

やったんです。とことん議論したんで、かなり詳しくなりなした。

その他個人的に刑法、民法、刑訴法、民訴法、自衛隊法にも

興味を持ちました。

イマジン

MLでどなたかが法律って抜け道を見つけるためのいたちごっこ

という印象だといっておられましたが、わたしはちょっとちがうとらえかたで、

善と悪「刑法」とか善と善「民法」のぎりぎりの対立、矛盾を調整する手順だと

考えるのです。だからおもしろい。えっ。おもしろくない?

戦闘訓練にしても、基本教練にしても、部隊清掃にしてもだんだん

訓練は激烈を極めてきました。

3日間寝ないで80キロの行軍とか、

水がない時に耐える訓練とか(かくれて水溜まりの水をのみました。)

人間ってどこまで耐えられるんだろう、何が限界かを追求してんノンかな?

を疑う日々でした。

ただ、サボろうと思えばいくらでもサボれました。というのは、

訓練の内容が厳しい日だなと分かると

「おなか、痛いんです。」といって、

無料の病院へかけこめばいいことでした。

「仮病だろ。」という上司は独りもいないのです。

ただ、自分を鍛えるのは自分。という信念みたいなものが

コンセンサスとして存在していて、選択は自由だったのです。

でも私は、受験戦争に敗れ、もんもんとしていた高校時代より、

この世での存在意義を失っていた自分より、自衛隊の訓練が

天国のように思えてとても楽しかった。

後期教育

3ヶ月、あっという間に過ぎました。

連隊長賞という名誉も、もったいないと思いました。

1980918日、私は教育隊を卒業し、中隊に配属になりました。

正式には陸上自衛隊伊丹駐屯地第36普通科連隊第二中隊です。

中隊というところは、会社でいえば「課」にあたるところです。

100名が標準的な大きさです。訓練は普段、中隊単位で行われ、

大きな訓練になると、連隊単位

(6〜8中隊)、師団単位(3〜5連隊)

方面単位

(3〜5師団)で動くということになります。

「普通科」というのは、いわゆる歩兵のことで、戦場では、

斥侯、歩哨、通信、突撃など、最終的に人間でないとできない

ことばかりの、極めて人間臭い仕事分野です。

使う武器もライフル型小銃が中心で、あと62式機関銃

(これが重い)

対戦車89mmロケットランチャー

それから、問題になってた地雷、手榴弾、投擲(とうてき)弾もありました。

一通りは後期教育隊でマスターするので、中隊に入ってからは、

あらためてやることはありませんでした。

教育隊の期間と決定的に違うのは、先輩後輩ができることです。

それに、教育隊と違って非常にのんびりしていることです。

自衛隊がのんびりしてどうすんねん、といいたくなりますが、

平和な日本、危機感がないというのは、日本の政治家に

限ったことではないのです。

1週間連続で「草刈り」をしたことがあります。

「平和」になると、人間、要領に走ります。

訓練のかけひき、先輩後輩間の取り引きもあります。

つまりどうしたら、楽できるか、に尽きるわけです。

おまけに自衛官は特別職国家公務員、給料は実績にかかわらず

決まっています。つまり、一生懸命やってる人間と、

ぐうたらな人間の表面的な評価が同じなわけです。

昇進は自衛隊法などの知識や英語、数学、国語などの学科で決まります。

常に自らを鍛えている人も多くいます。

でも、「なんのために」という問いに答えてくれる人はいません。

わたしはそれでも、毎日毎日が楽しかった。

11月上旬に、RCT検閲(方面総監による検閲)がありました。

北富士演習場から東富士演習場の樹海の中を約120キロの行軍で、

途中いろいろな戦闘状況に対応する訓練でした。

1日目は移動日で遠足気分でした。でも夜はめちゃくちゃ冷えて

テントの中でなかなか寝られなかった。

2日目の早朝、目の前に迫る富士山の美しいこと。

午後天候が急変し、みぞれ混じりの雨。そのなか、

戦車隊の砲撃訓練が行われ、直立不動で見守っている我が連隊の

隊員の鼻水が凍ったかと思われたほどでした。

その夜、敵からの攻撃ありとの状況に入り、午前3時から1時間の

仮眠をとった後、80キロの行軍がはじまりました。

交替で持つ62式機関銃は肩の関節がおかしくなるかと思われるほど

重かった。50分歩いて10分休憩のうち歩く50分が

2時間にも感じられるのです。東の空が白み始めたころ、

「30分仮眠!」の連絡に、おのおの樹海の中で死んだように

眠りました。その後、さあ出発という段になって、

第3中隊の隊員1名が行方不明。「脱走」と思われる。

なんていう連絡が入ってきました。

同じ隊員としてまず思ったのは、「やっぱり。」でした。

みな、逃げ出したい気分だったのです。

訓練は中断、樹海に逃げた隊員を昼夜、2000人の自衛官が

その後4日間交替で探したのでした。

逃げた隊員はライフルを持っていたし、空砲とはいえ弾を

入れたままでしたので警察にも届けられ、ヘリで空中からも

捜索が行われました。『脱走』の知らせは、当時の新聞にも

載りました。ちょうど、四次防の防衛計画が

国会審議中だったとかで物議をかもした様です。

ちなみに、逃げた隊員は樹海の中を3昼夜のあいだ

捜索を逃れ、4日目の昼ごろ、「おなかがへった」と出てきた

のです。

おもしろいのは、訓練後の方面総監の「講評」で、

「2000人で3昼夜のあいだ捜しても見つけられんとはなさけない。」

でした。チャンチャン。

自衛隊物語

中隊編

3部 上司

T塚2尉は、防衛大学校出身の

バリバリの中堅幹部でした。当時26歳でした。

身長163cm、自称日本拳法3段の腕前、自分の手足は

兇器だそうで、警察に届けてあるとのこと。

頭のてっぺんから声の出る人で、命令が聞き取りにくかった。

私の後期教育隊の区隊長となったとき、私が大学受験を

目指していると知って、休日に官舎に来いと呼んでくれ、

家庭教師をしてくれたのでした。

部隊での奇行は織田信長の美濃謁見を思わせるほどで、

幹部食堂へは行かず、一般隊員食堂で列の一番後ろから

どけどけどけ・・・といって割って入り、食事を受け取って

追い越した隊員の近くでむしゃむしゃ食べ始める・・・

というようなことを平気でやる人でした。

そんなT塚2尉がいつもとちょっと違う表情を見せたのが

RCT検閲(方面単位の大規模な演習)前の中隊訓練で、

福知山の山中にいたときのことでした。

当時若い隊員たちは、中だるみで、草刈りなどの雑用ばかり

の訓練に飽き飽きしているところでした。

訓練を企画したのはわれらがT塚2尉。

中隊を2つに割り、武器はいつものライフルで、空砲が20発。

3日間の予定で、(隊員には知らされていない)互いに相手の

状況をつかみ(斥候訓練)、必要に応じ相手隊員を逮捕し、

最終目標は本部を暴いて占領するというものでした。

その間、食料はなし、飲料は水筒の水だけ、相手チームに

捕虜にされた隊員は首だけ残して地中に埋められるという

ばつが与えられるというものでした。

早い話が本物のサバイバルゲームでした。

この訓練に私たちは大いに盛り上がり、体力と知力の続く限り

戦いました。何しろ、自分たちが活かされているという実感、

日ごろの訓練がすべて目に見える形で役に立つ、

自衛隊に入ってこれがはじめて本物の隊員なんだという実感が

沸いた瞬間でもありましたから。

ただ、飲み水はすぐに切れ、飢えとの戦い、渇きとの戦い

も始まりました。

それに何よりも一番の恐怖、それはいつになったら

終わるのかわからない・・・・・という恐怖感でした。

仲間隊員との連帯感、一体感が最高潮になった

2日め、

中隊長が突然訓練の即時中止を命じ、皆を集めてお説教を

はじめました。

何がいけないのか、よくわからないうちに部隊は伊丹に

戻りました。

どうやらその訓練はT塚2尉の独断で行われていたようです。

現場の気持ちを最もよく知るT塚

2尉が隊員の士気向上のために

仕組んだ訓練だったのです。

中隊長には単なる戦争ごっこと映ったかもしれませんが、

私たち隊員は生涯忘れ得ぬ面白い訓練だったのです。

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